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道宗 (遼)

治世の前半は「直言を求め、治道を訪ねる」(『遼史』)という宗旨のもと、勧農(農業の振興)・興学(学校の建設)・救災などに努めたが、やがて遊猟と仏教に浸り、堂塔の建立や僧尼への布施に巨額の国費を使い流し、仏寺・僧尼の氾濫を助長した。政治を顧みなくなり、耶律乙辛の専権を許した。耶律乙辛は聡明

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穆宗 (遼)

穆宗(ぼくそう、931年9月19日-969年3月12日)は、遼の第4代皇帝。諱は述律。太宗耶律堯骨の長男。史書によれば、性格は非常に残忍で拷問を好んだとある。 天禄5年(951年)、第3代皇帝であった従兄の世宗が暗殺されると、新たに皇帝として即位した。しかし即位後は奢侈に走って政治を顧みず、重臣も権

景宗 (遼)

景宗(けいそう)は、遼の第5代皇帝。諱は明扆。 第3代皇帝世宗の次男。応暦19年(969年)、第4代皇帝であった穆宗が暗殺されると、その後継者として重臣たちに擁されて即位した。北宋に対抗するために、北漢と同盟を結んだ。乾亨4年(982年)、雲州(現在の山西省大同市)で崩御した。享年34。 睿智蕭皇后蕭綽(承天皇太后)

興宗 (遼)

重熙24年(1055年)に40歳で崩御し、太子の査剌が皇位を継承した。 仁懿蕭皇后 蕭貴妃(蕭継先の子の蕭匹里の娘) 耶律査剌(洪基、字は涅隣、道宗) 耶律宝信奴(早世) 耶律和魯斡(字は阿輦、宋魏王、皇太叔、宣宗の父) 耶律阿璉(字は訛里本、秦越王、英宗の父) 耶律跋芹(晋国長公主、蕭孝穆の子の蕭撒八の妻、後に蕭孝忠の子の蕭阿速の妻、後に蕭窩匿の妻)

聖宗 (遼)

側室:李宗妃、蕭貴妃、馬麗儀、白昭儀、李順儀、艾芳儀 耶律只骨(宗真、興宗) 耶律孛吉只(宗元、重元、秦国王) 耶律別古特(宗簡、柳城郡王) 耶律呉哥(宗訓、燕王) 耶律狗児(宗偉、南府宰相) 耶律侯古(宗願、混同郡王) 耶律燕哥(宋国長公主、蕭継先の子の蕭匹里の妻) 耶律巌母菫(秦晋国大長公主、蕭浞卜の妻) 耶律搠古(晋蜀国大長公主、蕭孝忠の妻)

世宗 (遼)

懐節蕭皇后 耶律吼阿不(早世) 耶律明扆(景宗) 耶律只没(寧王) 耶律和古典(秦国長公主、蕭啜里の妻) 耶律観音(晋国長公主、蕭夏剌の妻) 耶律撒剌(蕭斡里の妻) [脚注の使い方] ^ 『遼史』太祖本紀に、「神冊三年十二月甲子、皇孫隈欲(兀欲)生」との記述がある。世宗が生まれた神冊3年12月2

道宗

道宗 道宗 (遼) (どうそう) - 中国・遼の第8代皇帝。  道宗 (徽宗の別称) (どうそう) - 中国・宋の第8代皇帝、徽宗の別称。  道宗 (真宗門徒) (どうしゅう) - 室町時代中期の浄土真宗の在俗門徒。 このページは人名(人物)の曖昧さ回避のためのページです。同名の人物に関する複数の

遼

っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。 南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置か

宗道村

変遷の年表 変遷表 田下(たげ) 下栗(しもぐり) 本宗道(ほんそうどう) 新宗道(しんそうどう) 渋田(しぶだ) 伊古立(いごだつ) 長萱(おさがや) 唐崎(からさき) 見田(みた) 羽子(はねご) 原(はら) 松村脩平 総数 [単位: 人] 総数 [単位: 世帯] 常総鉄道 → 常総筑波鉄道( → 関東鉄道)

宗道駅

20分(※主要レース開催時は石下駅から送迎バスが運行される)。 千代川体育館 ヘキサホール・きぬ 本宗道バス停 関鉄パープルバス石下駅発下妻駅行き(冬休み期間中片道1本運行) 関東鉄道 ■常総線 ■快速 通過 ■普通 玉村駅 - 宗道駅 - 下妻駅 [脚注の使い方] ^ 水海道駅で同一ホーム対面乗り換えとなる

趙宗道

父は参奉趙堰、母は大司成姜老の娘。幼くして鄭斗の門下で修学し、曺植の門弟でもある。1558年に生員試に合格し、薦挙で安奇道察訪になった。この時李滉の門弟柳成龍・金誠一などと交遊した。その後司䆃寺直長・尚瑞院直長・通礼院引儀・掌隷院司評などを歴任した。1585年に

宗道臣

和8年)、当時北京に隠棲していた北少林義和門拳の文太宗老師の弟子となる。1936年(昭和11年)、嵩山少林寺で義和門拳の法脈継承の儀式を行い、伝法の允可を受けた。 1937年(昭和12年)満州の鉄路警護隊員、1939年(昭和14年)満州綏陽商工股長、1943年(昭和18年)満州綏陽商工会事務局長を歴任。

遼遠

はるかに遠い・こと(さま)。 「完成までは前途~だ」「幽闃(ユウゲキ)のあなた, ~のかしこへ/草枕(漱石)」

遼河

中国, 東北地方南部を南流する河川。 大興安嶺の南端に発する西遼河と吉林省の丘陵に発する東遼河とが, 遼寧省北端付近で合流して遼河となり, 渤海(ボツカイ)に注ぐ。 長さ1430キロメートル。 遼水。 リアオ-ホー。

遼東

中国, 遼寧省の遼河以東一帯の呼称。 リアオトン。 <i>~の豕(イノコ)</i> 〔遼東では珍しい白頭の豚が他の土地ではありふれたことであったという「後漢書(朱浮伝)」の故事から〕 ごく当たり前のことを独りよがりで得意に思うこと。

遼史

中国, 二十四史の一。 遼朝の歴史を記した書。 一一六巻。 元の脱脱らの撰。 1345年成立。 本紀三〇巻, 志三二巻, 表八巻, 列伝四五巻, 国語解一巻。

西遼

遼の王族耶律大石(ヤリツダイセキ)がカラハン朝を滅ぼして建てた国(1132-1211)。 東西トルキスタンを支配したが, トルコ系のナイマン部に国を奪われた。 カラキタイ。 黒契丹。 → 遼

興遼

興遼(こうりょう)は1029年から1030年の間に存在した渤海人の王朝。独自の年号を使用していた。 1029年、(後渤海国の滅亡(1018年)のわずか11年後)、渤海国太祖大祚栄の七世孫、遼の東京遼陽府の舎利軍の将軍大延琳が、民衆の苦しんでいるのに乗じて遼に反乱、東京遼陽府で独立、満州の地に「興遼国」を建国した。

北遼

春から西方の雲中(現在の山西省大同市)の陰山に移動した天祚帝のもとに身を寄せる事になった。天祚帝は怒りから叔母の蕭普賢女を処刑し、耶律淳を庶民として属籍から除名した。 同年5月8日、南京(燕京)にいた遼の大臣たちは再び「北遼」を建国し、天祚帝の次男の梁王耶律雅里(耶律定の同母兄)を北遼の皇帝として、

後遼

之。哈真患之、遣通事趙仲祥、与我徳州進士任慶和、来牒元帥府曰『皇帝以契丹兵逃在爾国、于今三年、未能掃滅故、遣兵討之。爾国惟資糧是助、無致欠闕』。仍請兵、其辞甚厳。且言『帝命、破賊後、約為兄弟』」 ^ 『高麗史』巻103列伝16趙沖伝,「於是、以尚書省牒答曰『大国興兵、救患弊封、凡所指揮、悉皆応副』。